心理テクニック

人間の本性を暴く心理テクニック11選

ナツキ
ナツキ
いらっしゃいませ!!

嫌いな人と思われると得をする!

学生時代のクラス替えのことを思い出してください。

人によって程度の差はありますが、新しいクラスには見慣れないクラスメートが大勢いて、なんとなく違和感を感じたと思います。

しかし、毎日通っているうちに、いつの間にかその違和感は消えている。これが人間の備えている「慣れ」です。

仁徳を受けつづけると慣れる

人間には慣れが備わっているために、いい人よりも嫌な人と思われたほうが得をすることがあります。

たとえば、あなたの会社に穏やかな性格で普段から誰にでも親切なAさんが入社してきたとします。周囲の人は、最初こそ「いい人だ!」と感動し、その親切な行為に感謝するでしょう。

しかし、日常的にそれがつづくと、Aさんに親切にされることは普通になっていき、やがて「親切にされて当然」と思うようになるでしょう。

これは、Aさんの親切が「相手の期待通り」だからです。

一方で、いつも不機嫌そうな顔で周囲に睨みをきかせ、褒めてくれたことなど一度もないBさんという上司がいたとします。

ある日、ひとりで残業していたあなたに、Bさんが突然コーヒーをおごってくれたらどうでしょう。ほかの人におごられるより、ずっとうれしく感じるのではないでしょうか。

他人から親切にされたりなにかをもらったりしたとき、人はそれが自分の期待した以上のものでないと心が動きません。

Aさんの場合、周囲の人たちは親切に慣れてしまったため、特別なことだとは感じなくなって心が動かなくなりました。

Bさんの場合、近寄り難く感じる相手に人は何も期待しませんから、ちょっとしたことであるにも関わらず、大きく心が動いたというわけです。

人は普段との開きがあると喜びを感じる

マキャベリはこうした人の心理について、こう述べています。

人間というものは、危害を加えられると思い込んでいた相手から親切にされたり恩恵を施されたりすると、そうでない人からの場合よりずっと恩に感じるものだ

-ニッコロ・マキャベリ-

他人からなにかしてもらったとき、なにも期待していない相手であるほど、そのギャップから実際以上の恩恵を受けたような感覚に陥るのです。

これとは逆に、先述したAさんの場合は親切にされるのは期待通りですから、とくに恩恵を受けていると感じません。

むしろ親切な対応をされなかったりでもすれば、損をしたような気になってAさんを非難し始めたりするのです。

周囲からいい人だと思われているAさんは、いわば自分でハードルを上げている状態。

期待の度合いがもともと高いので、慣れてしまった周囲の人には、よほどのことをしないと感謝されません。

対して、普段から嫌な人と思われていれば、ほんの少しよいことをしただけでも感謝されます。単純な損得で考えれば、AさんとBさんのどちらが得かは、改めて言う必要もないでしょう。

ただし、あくまで嫌な奴だと「思われて」いた方が得をしやすいというだけで、「嫌な奴になれ」と勧めているわけではありませんから、注意してください。

人間は自己中!

東日本大震災が起きたとき、援助に駆け付けてくれた外国の方のなかには、被災者が整然と列に並んで配給品を持っている姿を見て、とても驚いたという方がいたようです。

緊急時では利己的になる

世界的に見れば、平和なときは、ルールを守るであろう人々でも、ひとたび災害などで我が身に危険が及べばなりふり構わぬ行動をとるのは珍しくありません。

その方は、実際にそうした光景を目にしたことがあるのでしょう。それにもかかわらず、人々がまるで平時のように並んでいたから驚いたのです。

実際、過去に外国で起きた災害や政変などの映像などでは、援助物資が到着した途端に先を争って奪い合うように持ち出したり、騒ぎに乗じて商店から品物を盗み出したりする姿も目にします。

「人はみな、利己的だ」などと言うと、嫌がる人たちもいます。人間には心がありますから、ほとんどの人は自分の欲望だけではなく、道徳や社会的な抑制などを考えて行動します。

しかし、人間はあくまで動物の一種でもあるので、危機的な状況が身近に迫れば生存本能が刺激され、社会規範を逸脱した行動が前面に出てくることもあるのです。

世界的に見れば、緊急時に利己的に行動する人が多いのが普通のようです。考えてみれば、送られてくる援助物資には限りがあります。

ガスや水道など、生活に必要なインフラが停止して、さらに商店も機能していないのであれば、必死になるのも当然です。

のんびり順番を待っていては、自分が物資を得られない可能性もあるのですから、なりふり構わぬ行動も当たり前なのでしょう。

人は利己的!を踏まえて先手を打つ

マキャベリはこのように述べています。

そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだ

-ニッコロ・マキャベリ-

すべての人が必ずしもそうだとは限りませんが、程度の差はあるにしろ、ほとんどの人はこうした部分があるのではないでしょうか。

「簡単に他人を信用しない」でも触れましたが、人の言動は平時のときと」非常時では変わってくるものです。

ビジネスでも、平時(順調なとき)と非常時(不調なとき)で周囲の態度が変わることは珍しくありません。

人間が利己的でないと信じるのは自由ですが、だからと言ってまったく備えをせず、無防備でいるのは考えものです。

人は利己的な行動をとるものだと考え、対策を立てておけば、万一のときも慌てずに済みます。

対策が役に立つ日はこないかもしれませんが、万一の備えなど使う機械がないに越したことはないのですから、それはそれで喜ばしいことでしょう。

肝心なのは、人が利己的かどうかということ自体ではなく、そうだった場合はどうするかを想定して、あらかじめ対策を立てておくことなのです。

人は自己中である!

マキャベリは、君主が民衆に憎まれないための方法のなかで、次のように述べています。

一般大衆は財産や名誉を奪われない限り満足して生活し、したがって君主は少数者の野心とだけ戦う必要があるだけに過ぎず、この野心を抑圧する手段は数多くあり容易である

-ニッコロ・マキャベリ-

生活が落ち着いていれば満足

財産の次に名誉が記されているのは、マキャベリが生きていた時代に名誉が重視されていたからです。

このように考えていたのはマキャベリだけではありません。さらに古い時代、1〜2世紀にかけて活躍したローマの風刺詩人ユウェナリスの言葉に、「パンとサーカス(パンと見世物ともいう)があります。

これは「食べ物と余暇をつぶす娯楽さえあれば、人はおおむね満足する」という意味で使われることも多いですが、もともとは当時のローマ市民がすっかり国政への関心を失ってしまった様子を風刺したものでした。

マキャベリやユウェナリスの言葉からは、共通する民衆の姿が浮かび上がってきます。それは、とくに生活に困りでもしない限り、偽政者に文句を言わないという点です。

これは古い時代だけかというと、そんなことはありません。実は現代でもそれほど変わらないのです。

現代でも、経済が安定して収入に満足している状況では、人々はあまり政治に関心を示さない傾向があります。

実際、景気が良いときは新たな政策や法律が通りやすいという話もあるのです。

そして、経済状況が悪化して影響が自身に及んだとき、人々はようやく政治に目を向けるのです。

政治が悪い=自分たちのせい

生活に悪影響が出てくると、よく「国や政治が悪い」という人がいます。

しかし、民主主義国家では政治家を選ぶのは国民ですし、国は国民が形成するコミュニティですから、これは「自分たちが悪い」と言っているのと同じです。

近年、日本では国の財政が問題になっていますが、それを知りつつ「福祉を充実させろ」「でも増税はするな」と無茶な要求は絶えません。

お金は湧いてはきませんから、どこからか調達する必要がありますが、こうした要求をする人たちは財源のことなどお構いなしです。

政治家も国民の声は無視できませんから、増税は延期。結局、国債を発行して資金を得るしかなく、国の借金はまた増えていくのです。

こうした状況を見てしまうと、「大衆は普通に暮らさせてさえいれば満足だ」などと言われても、「その通りですね」としか言えません。

暮らしが安定していれば政治に無関心で、声をあげたかと思えば無茶なことを言う。この状況は、人々に国政に対するビジョンがなく、いかに自身のことしか考えていないのかの表れでしょう。

民主主義である以上、国の状況を変えられるのは国民だけです。国や政府を「お上」のように捉えて愚痴をこぼすのはそろそろやめて、きちんと向き合わなければいけません。

人は嫉妬する生き物!

人によって差はありますが、嫉妬は古くからすべての人に備わっている感情のひとつです。

嫉妬は本能的である

厳密には、自分が愛情の対象としている相手が、ほかの人に愛情を向けたときに湧く感情を指す言葉ですが、「ねたみ」「羨望」といったやや似て異なるものも嫉妬と表すことが多いようなので、これに倣っています。

さて、嫉妬というと男女関係を思い浮かべますが、兄弟のあいだに能力差が明確になったときなどにも起こります。

生まれて一年もたたない赤ん坊や、なんと複数のペットを飼っている場合にも見られるそうす。人間も含めた一部の哺乳類や鳥類の場合、愛情は個体の成長や子孫を残すための生殖に関わっています。

幼い個体が親の愛を失えば死が近くなりますし、愛情をパートナーに受け入れてもらえなければ子孫は残せません。

人間の場合、優れた才能や大きな財産は社会で認められることに関係します。承認欲求を満たすことにもつながりますし、一般的には配偶者を得るうえでも有利でしょう。

これは推測になりますが、嫉妬という感情は、無事に成長したり子孫を残すための、本能的なことに関係あるのかもしれません。

仮にそうだとすれば、嫉妬に駆られた人が相手に対して攻撃的になるのも、仕方ないのかもしれません。

嫉妬を防止するには自分と他人を比べない

人間は他人との競争にさらされているので、なにかと自分と他人を比べがちです。

なにかきっかけを得て、自分なりの価値観や幸福観を確立できれば、他人との差を気にすることも少なくなります。

しかし、そうでない場合はどうしても自分と他人を比較せずにはいられません。

憧れる人が多い有名人にファンがいる一方、「アンチ」と呼ばれる人が存在するのも、その人が自分より目立つ存在であることや、多くの人に認められていることに対する嫉妬と無関係ではないようです。

古くから問題になっている学校でのいじめでも、自分より目立つ要素をもった相手に対する嫉妬が、その原因になっていることがあります。

嫉妬について、マキャベリはこのように述べています。

人は、心中に巣食う嫉妬心によって、ほめるよりもけなすほうを好むものである

-ニッコロ・マキャベリ-

競争社会に身を置く人間は、他人の優れた点を認めたとき、それが自分よりも優れていると「凄い」と関心すると同時にどうしても「負けた」と感じてしまうのかもしれません。

嫉妬しやすい人は、格上と感じた相手に反感を持つそうですから、相手と比較して生じる劣等感が原因のひとつなのは間違いないようです。

嫉妬の感情は、抱いている本人にとっても煩わしいものです。

他人と比較することで生じる劣等感や相手の幸福に対してのねたみが原因ですから、抱かずに済ませたいなら、まずは自分なりの価値観を確立し、「他人と比べて〇〇だから幸せ」といった考えを改めることから始めましょう。

人は目で見ることで判断する!

マキャベリはこのように述べています。

総じて人間は、手にとって触れるよりよりも、目で見たことだけで判断してしまう

-ニッコロ・マキャベリ-

これは「人というのは、目に見える情報だけでしか相手を判断できない」ということです。

控えめは評価ダウン

たとえば、私たちは日本の総理大臣のことを知っていますが、実際に総理大臣と会って話をできる人間はごくわずかです。

私たちが知る総理大臣とはマスコミなどの報道によって伝えられる情報がすべてであり、直接会ってその人柄に触れる機会というのはまずありません。

さらに、私たちはマスコミが伝える情報すべてに目を通すわけではありませんから、個々の持つ「総理大臣像」というのは、その人がどういった情報を得たかによっても大きく左右されます。

従って、ある人にとっては「立派な総理大臣」でも、別の人にとっては「最低の総理大臣」ということもありえるわけです。

これは、個人でも同じで、いくらあなたが影で一生懸命努力していたとしても、周囲の人がそれに気づかなけえばその一面が評価されることはありません。

「真面目にコツコツやっていれば、きちんと見てくれている人はいるよ」という言葉もありますし、それも事実であることは明確かですが、組織の中で存在感を示すには自己アピール力を磨くことも絶対に必要です。

自分の評価というのは自分ではなく他者が決めるものですが、他者に対して評価する材料を与えるのは自分自身です。

外見を磨くことが重要

このマキャベリの言葉から得られる教訓は、「人は与えられた断片的な情報のみで相手を評価する」ということです。

したがって、自分のことをあまり知らない相手、とくに初対面の人と接する場合などは、自分がどのような態度を見せるかで相手の印象は大きく変わってきます。

わかりやすいのは身だしなみでしょう。たとえば、会社に初対面となる取引先の営業マンが二人訪問して来たとしましょう。そのうち片方は身だしなみの整った人、もう片方はだらしない格好の人だったとします。

この場合、あなたはどちらのほうが、より信頼できそうな相手だと思うでしょうか?やはり身だしなみが整った相手のほうが、好印象を受けるのではないでしょうか。

もちろん、これは単に見た目だけの問題ではなく、「社外の人間と会う際には、身だしなみを整える」というビジネスマナーをきちんとわきまえている人物であるかどうか、という部分も大きく影響しています。

実際にはだらしない格好の人のほうが優秀であったとしても、そういったことは一緒に仕事をしてみないとわからないものです。

いくら内面が素晴らしくても、それ以前に、見た目で判断されて評価を落としてしまうようでは意味がないのです。

自分を買い被らない!

自分の力を過信し過ぎて失敗した。そんな経験は、誰しも一度くらいはあると思います。

ほとんどの事柄に言えることですが、人は他人に対して厳しい反面、自分に対しては甘くなりがちです。

ときおり自分に厳しい人もいますが、常にそうした態度をとれる人は少ないものです。

自分の実力は低めに

仕事の遂行能力の評価で考えてみましょう。周囲から見て「やれなくはないと思うけど少し心配」というラインなのに、本人の見積もりでは「割と余裕」という判断。

ところが、実際にその仕事を任されてみると、「予想よりも時間がかかってしまった」ということになるのです。

これは、仕事の難易度に対する見極めの甘さもありますが、自分の力への過信によるところでもあるのです。

マキャベリもこのように述べています。

人間は自分の事柄に関しては極めて評価が甘く、容易に欺むかれるものであって、この禍から身を守ることは難しい

-ニッコロ・マキャベリ-

人が自分の力量を過大評価して失敗するケースは、昔からよくあったことなのでしょう。

よって、自身に対してなにかの評価を下す場合は、最初に思い浮かべたものより割り引いたものが、本当の姿だと考えた方が無難です。

とくに仕事に関する事柄の場合は、低めに見積もっておいたほうが確実ですし、他人にも迷惑をかけなくて済むものです。

自分の能力を低めに見て引き受けた仕事なら、明日よりも早く終えられる可能性もあります。

相手の期待値はあなたが仕事を引き受けた際に申告した通りですから、自分は普通に仕事を進めていただけだとしても、相手は「頑張ってくれたんだな」と解釈して喜んでくれるかもしれません。

自分の実力をどう評価する?

ここで問題になってくるのは、仕事を引き受ける際に、自分の力量をどう査定するかでしょう。

仕事には必ず期日があります。「○日以内に」と指定されることもあれば、内容の説明を受けたあとに「どの程度の期間でできますか?」と相手に聞かれることもあるでしょう。

このとき、自分が最大限に力を発揮した場合で期日を決めてしまうと、たいていは期日を守れなくなります。

人間が長時間にわたって目いっぱいに力を発揮しつづけるのは、よほど自分を追い込める人でもない限り難しいものです。

先方が万一に備えて余裕を確保していることもあり、一日から二日程度の遅れなら問題ないこともあります。

しかし、必ずしもそうだとは限りませんし、問題が起きなかったとしても、あなたの信用に傷がつくことは避けられません。

よって期日の設定は、6割から7割程度の力で仕事をした場合を想定するとよいでしょう。やや低く、感じると思いますが、体調不良などによる能力低下などの可能性も考慮しています。

これでも期日を守れないとしたら、過去の仕事状況を再確認し、自分の力量の評価を見直したほうがいいでしょう。

善意や気遣いが裏目に出ることもある!

一般的に善とされる行為は、賞賛されることはあっても避難されることはなく、ましてやそれが原因で誰かに害されるなどとは、誰も考えないでしょう。

善行が悪になる実例

マキャベリはこう述べています。

常に考慮しておくべきことのひとつは、人の恨みは悪行からだけでなく善行からも生まれるということである。心からの善意でなされたことが、しばしば結果的に悪を生み、人に恨まれることが少なくないからである

-ニッコロ・マキャベリ-

これは一体どういうことなのでしょうか。恨み恨まれるという状況は、誰かの行動によってほかの誰かが不利益を被ったり不都合が生じたときに起こります。

恨みを抱く理由はさまざまですが、善と信じて行った行動やその結果が、他人の主義主張と対立したり、不利益を与えることがあるということです。

たとえば、パキスタンのマララ・ユスフザイは、女性が教育を受けられる権利を訴えつづけてノーベル平和賞を受賞しました。

一方、女子教育を敵視していた武装勢力にとって、彼女の主張は容認できるものではなく、彼女は武装勢力に襲撃されることになりました。

また、ゴリラの研究で著名なアメリカの生物学者ダイアン・フォッシーは、アフリカに渡ってゴリラの保護活動をしました。

彼女は密猟者に対し次第に攻撃的になっていき、やがて「ゴリラの生活を脅かす」という理由で観光業界とも対立。最後は何者かによって暗殺されてしまいました。

彼女たちの行動は、人権や動物保護の観点から見れば善行と言えるものです。

しかし、武装勢力から見ればマララは容認できない存在でしたし、密猟者や観光業界から見れば、ダイアンは敵であり頭痛の種でもあったのです。

民間人でさえこうなのですから、権力をもつ君主や政治家はなおさらです。

とくになにかを改革しようとするとき、一般的には善行でも権利を失う人にとっては悪ですから、反感を抱いて抵抗したり、非道な手段をとったりするのです。

過剰な親切は無意味なことも

こうした状況は、ビジネスの場でも起こり得ます。たとえば、なにかの仕事で苦戦している人がいて、あなたが手伝うことになったとします。

このとき、ほぼあなたひとりで終わらせたような結果になると、問題が起きる可能性があります。

仕事で苦戦しているという状態は、慣れない仕事の仕方を「学んでいる状態」とも言えます。そこであなたが頑張り過ぎると、本人は成長できません。

相手の自立心が強ければ「自分の仕事を取られた」と感じるかもしれませんし、プライドが高い人であれば「能力が高いからって、見せつけやがって」と、嫉妬されるかもしれません。

これらは、恨みではありませんが、あなたへの負の感情なのは同じです。せっかく手伝ってあげたのに、マイナスの感情を向けられたのではたまりません。

手を差し伸べること自体は悪いことではありませんが、どの程度まで手助けをするか、度合いには気をつけたいものです。

人はいつもピンチのことを考えない!

人は大きな事故や災害が報じられると不安を覚え、そのときは「万一に備えなければ」と感じます。

しかし、メディアがすっかり報じなくなると、人々も災害のことなどすっかり忘れてしまい、目の前にあるものとの日常に追われ始めてなにもしないのです。

人の共通点は非常時の備えを怠る

もちろん、なかには実際に備えを用意したり、勤め先での避難先などを確認したりする人もいます。しかし、そうした人たちですら、普段は災害のことなどほとんど考えていません。

常に災害への備えを怠らない人がいるとすれば、かつて実際に大きな災害や事故に遭った経験がある人たちくらいでしょう。

そして、まったく備えをしていなかった大半の人々は、いざ自分が非常事態に巻き込まれてから、慌てることになるのです。

こうした人々の習性について、マキャベリは土地を他人に奪われてしまった領主のことに触れています。そしてこう述べています。

晴天の日に、翌日は雨が降るとは考えないだけである

-ニッコロ・マキャベリ-

一方でこのようにも述べています。

こうした点は人間に共通する弱点だ

-ニッコロ・マキャベリ-

平和なときに、人間が非常時のことを忘れてしまうのは、今も昔も変わらない習性というわけです。

調子の良い時こそ慎重な人材を

マキャベリも著書のなかでたびたび指摘していますが、「人は目先のことに捕らわれやすいもの」です。

「天災は忘れたころにやってくる」という言葉もあるように、大きな災害は毎年起きるといったものでもありません。このため、人々は災害が起きるということ自体を忘れてしまうのでしょう。

仮に自分の周囲で大きな災害や事故などが頻繁に起こるような環境だったとしたら、備えを怠る人はいないでしょう。

そうした環境で暮らす人々にとっては、命が危険に晒される大災害や事故に遭うのが日常です。備えを怠れば生き残れませんから、非常事態を警戒して備えるのも日常、つまり当たり前だからです。

私たちが常に大災害や事故を想定しつづけられれば、災害や事故を日常のものとして認識できるかも知れません。

しかし、すでに平和が当たり前になっているため、日々の生活に捕らわれて、なかなかそこまで考えられないのでしょう。

ビジネスでもこうした傾向は同じで、順調に仕事が進んでなにもトラブルが起きない状態がつづくと、次第に警戒心が薄れてしまいがちです。

そして、緩みきったときに大きなミスを起こしてしまい、慌てて対処に追われるのです。

ビジネスでは時に乗じて前に進むことが重要ですから、とくに企業の業績が好調なときは、勢いのある人材ばかりに目が行きがちです。

しかし、前へ進むには足元がしっかり固まっていることが大前提です。

企業全体の空気が浮き立った状態のときこそ、トラブルで足元をすくわれないためにも、後ろを振り返って警戒する慎重な人材が重要になってきます。

人は追い込まれると行動する!

マキャベリの言葉に、このようなものがあります。

人間は必要に迫られなければよいことを行わず、選択の余地があり、放縦たることができる場合、人間はすべての事柄を直ちに混乱と無秩序に陥れる

-ニッコロ・マキャベリ-

これは「人間は必要に迫られないと動かず、好き勝手なことをしたがる」ということ。すなわち、裏を返せば「人間は必要に迫られれば動く」ということになります。

必要性は人が動く理由のひとつ

たとえば、子どものころの夏休みの宿題を思い出してみましょう。

宿題の進め方は人によっていくつかありますが、最初の数日のあいだにすべて終わらせてしまう人や、毎日少しずつ進める人は少数派で、ほとんどの人たちは始業式の日が終わる数日前になってから、慌てて宿題に取り掛かっていたのではないでしょうか。

宿題を提出するのは、新学期が始まってからです。

「せっかく夏休みに入ったのだから」という意欲の問題もありますが、ひと月ほど余裕があるので、そもそもすぐに終わらせる必要がありません。

そのため、ほとんどの人は「後でやればいいや」と考えて、宿題を放っておくのです。とはいえ、宿題をやらないと先生に叱られてしまいます。

そこで、これを回避する必要性に迫られて、夏休みの残りがわずかになった頃になってから、しぶしぶ宿題を始めるのです。

では、少数派の人たちはどうでしょうか。

こちらの方法を取る理由としては、「先に宿題を終わらせておけば、何も気にせずに遊べる」「少しずつ進めておけば、何かあっても安心」といったものがあります。

彼らが選んだ方法は、安心したりなにも気にせず遊ぶために「必要なこと」だったというわけです。

人を動かすにはニーズをはっきりと示す

指示や依頼の内容は把握していて、作業の進め方で悩んでいるわけでもないのに、なぜか部下や取引先の相手がなかなか動いてくれない。

あなたの身の回りでも一度くらいは、このようなことが起きたことはあるのではないでしょうか。

こうしたケースでは、あなたに頼まれた相手が、その作業を何のためにするのかという目的を、はっきり認識できておらず、やる気がでないために先延ばしにされている可能性があります。

人は、理由がわからない状態のまま、なにかをすることを嫌う傾向があります。ただでさえ人間は怠け者ですから、明確な理由、つまりそれをする必要性を理解しないと動きません。

なにかを他人に依頼したり指示を出すときは、具体的な作業内容や進め方だけでなく、何のためにするのかという必要性も、相手にきちんと伝えておく必要があるのです。

必要性を説明すれば、相手も動かなければならない理由が理解できるので、それが行動を起こす力、つまりやる気につながります。

人を動かしたいときは必要性を明確にして、モチベーションを高めることが鍵なのです。

不隠には不隠で報いよ!

なにか約束をするときは、当事者の双方が内容に納得し、合意したうえで結ぶのが一般的です。

しかし、なにかを盾にされたり脅しをかけられたりして、不本意な約束を結ぶよう強要されることもあります。

無理強いされた約束は可能な時に破棄する

このように結ばれた約束について、マキャベリはこのように述べています。

無理強いされて結んだ協約を破棄するのは、恥すべき行為ではまったくない

-ニッコロ・マキャベリ-

その理由として、歴史上では君主同士の約束が力関係の変化によって簡単に破られてきたことをあげ、さらにマキャベリは…

約束が公的なものである場合、相手国の力が弱まったらすぐに破棄されるのが当然

-ニッコロ・マキャベリ-

と、言っている。

結びたくない約束を結ぶのは、それを拒否した時になんらかの気概を加えられる可能性があるからである。

相手の立場が強いために逆えず、やむなく結んだだけであるから、力関係が逆転したのであれば、その約束を守り続ける理由はないということである。

その約束が、公的である場合、たとえ内容が不都合なものであるとしても結び続けている以上、守らなければ他の君主からの信用を失うことになる。

よって、破棄できる状況になったのであれば、何をおいても破棄すべきであるのだ。

もともとこちらが望んだ約束ではないのだから、これは至って当然のことである。

不義な相手に義を通す必要ナシ!

こうした事情は現代でも同じことである。

仮に、無理強いされた約束が法的拘束力を持つものだった場合、相手は「履行すべきだ!」などと主張する場合も少なくないだろう。

しかし、力関係が逆転しているのであれば、こちらの方が強い立場なのだから、今度はこちらが相手に無理強いをして、約束自体を白紙にさせればよいのである。

ときおり「そんなことをすれば相手と同じだし、義に反する」などと言う人がいます。しかし、相手がこちらの反撃で滅ぶような状態まで落ちぶれていても、ためらう必要はありません。

へたに情をかけたところで、改心するかどうかもわかりませんし、甘さを見せればこちらが侮られてしまいます。

義に反する行為を意図的にしかけてくるような相手の義を通す必要はありません。相手を哀れんで不利益を被りつづける理由もないのです。

現代でここまでのことは起きることはないでしょう。

ただ、ビジネスでは企業の力関係がものをいう面もありますから、仕事の発注の打ち切りをちらつかせながら、料金を値切ってくるようなことはあるかもしれません。

しかし、そんなことをしてくれる相手はろくなものではありませんから、きっぱり断るのが賢明です。無理に付き合いをつづけたところで害になるところだけです。

幸い、日本は法治国家で警察機構も機能していますから、それで妨害などをしかけてくるようなら、それなりに打つ手もあるでしょう。

もっとも、そんな企業が大手を振っている業界は、いずれ衰退するでしょう。いっそスッパリと見切りをつけてしまうのも、ひとつの方法かもしれません。

いつも改革をサボるな!

人間の偽すあらゆることは、はじめから完全無欠ということはありえない

-ニッコロ・マキャベリ-

完璧は存在しない

たとえば、ある会社が新たな分野への事業に乗り出すとします。

これまで経験のない新規事業への参入ですから、会社としては事前に膨大なリサーチを行い、外部からも数多くの有識者を招き、さらに想定されるさまざまな懸念事項への対処法も検討するなど、念には念を入れた綿密な事業計画を作成しました。

しかし、どれだけ完璧に見える準備を行っても、すべてが計画通りにうまくいくとは限りません。

いざ事業を開始してみたら、思いもかけない事態に遭遇したり、想定外のトラブルが多発した、というのは十分にあり得る話です。

こうしたことは、2020年の東京オリンピックを巡る騒動を見ても明らかでしょう。

東京オリンピックを巡っては、スタジアム建設の白紙撤回や、エンブレムの盗用疑惑といった、信じられないような問題が次々と起こりました。

また、あれだけ「安全」と喧伝し、万全の安全対策をとっていたはずの原子力発電所が東日本大震災での津波によって破壊されたことも、「完全無欠ということはありえない」ことの証明といえます。

国内の優秀な有識者を集め、莫大な予算をかけた国家プロジェクトですらこの有様なのですから、「はじめから完全無欠」というのが、いかに難しいことかがよくわかると思います。

つまり、人間が行う以上、最初から完全無欠な計画やシステムなどというものは存在せず実際にそれを運用してみて、はじめて見えてくる問題点もあるということです。

したがって、なんらかの新しい計画やシステムを構築する際は、それがどんなに完璧に見えても「必ず想定外の問題やトラブルは起こる」というふうに考えておくべきです。

そして、実際に起きたさまざまなトラブルを教訓とし、常に制度やシステムを見直していく必要があるのです。

古いシステムや習慣に縛られない

こうした制度改革の必要性についてはマキャベリもこのように述べています。

はじめは、とるに足らない欠陥に思えたものから、時が経つにつれて障害が芽生えてくる。それゆえ、法律であれ制度であれ、現状に合うような手直しが常に必要になってくるのである

-ニッコロ・マキャベリ-

どんなに優れた制度も、それが未来永劫にわたって有益であるとは限りません。

人々のライフスタイルや価値観は時代とともに変化していきますし、新たな技術の登場によって、かつては想定していなかったような問題が発生する場合もあります。

国家であれ、会社組織であれ、過去の古い制度や慣例に縛られていたのでは発展はありません。不利益と判断したらすぐに制度を見直す。そうした柔軟な姿勢が大切です。

最後までお読み頂き本当にありがとうございました。

ナツキ
ナツキ
あなたの人生に素敵な勝利が訪れますように

KIYORA Group
メンタリストのための心理学 主任
桃園 ナツキ(ももぞの なつき)